観光業のDX化で課題となっていることは何か?専門家の視点から読み解く

デジタル化の波は、今やあらゆる産業に及んでいます。特に、顧客の「体験」そのものを価値の中心に据える観光業は、コロナ禍を経てビジネスモデルの根本的な変革、すなわちデジタルトランスフォーメーション(DX)の必要性に直面しています。

David Rogers氏が著書『The Digital Transformation Playbook』で指摘するように、DXとは単に既存のビジネスプロセスをデジタル化(Digitization)することではありません。それは、ビジネスモデルそのものを再構築する、より深く、包括的な変革です。もはやDXは単なる改善プロジェクトではなく、パンデミック後のデジタルネイティブな世界において、企業が生き残り、社会との関連性を維持するための根源的な問いとなっているのです。

本記事では、Thomas Siebel氏、Jim Highsmith氏、Prof. L. Prasad氏といったDXやAI分野の第一人者たちの知見を基に、日本の観光業がDXを推進する上で直面している本質的な課題を、専門家の視点から多角的に分析・解説します。

観光業DXの真の意味:単なる「デジタル化」
を超えて

観光業におけるDXは、単に予約サイトを導入したり、SNSで情報発信したりすることに留まりません。その本質は、ビジネスの根幹を変える、より深い変革にあります。

AIの権威であるThomas Siebel氏は、著書『Digital Transformation』の中で、DXを「クラウド、ビッグデータ、AI、IoTという4つの技術が融合し、ビジネスのあらゆる側面を再構築する現象」と定義しています。これは、技術を導入するだけでなく、技術によってビジネスの在り方そのものを変えることを意味します。

この好例が、David Rogers氏も分析するAirbnbです。彼らは単に宿泊施設の予約プロセスをデジタル化したのではありません。David Rogers氏が述べるプラットフォームモデルを用いて、彼らは「空き部屋を持つホスト」と「本物の体験を求める旅行者」という2つの異なるグループを結びつけ、価値を直接創造・交換することを可能にしました。これは、従来ホテル業界自身が独占してきた役割を根本から覆す、新たなビジネスモデルの構築でした。

ここから導き出されるのは、観光業におけるDXの真の意味が「顧客体験、ビジネスモデル、業務プロセスの根本的な再発明」であるという事実です。

最大の挑戦:顧客体験(CX)の再発明

観光業の価値の中核は、言うまでもなく「顧客体験(CX)」です。そのため、このCXの変革こそが、DXにおける最も重要かつ困難な課題となります。

「マスツーリズム」から「パーソナライズされた旅」へ

David Rogers氏が指摘するように、現代のビジネス環境は「マスマーケットから顧客ネットワークへ」と移行しています。今日の旅行者は、SNSやレビューサイトを通じて動的につながり、リアルタイムで情報を交換し合っています。画一的なパッケージツアーを提供するマスツーリズムの時代は終わりを告げ、個々のニーズに応える必要性が高まっています。

しかし、「パーソナライズされた旅」の実現は容易ではありません。David Rogers氏が言う「顧客ネットワーク」は、単に互いに交流しているだけではありません。彼らは、Thomas Siebel氏がパーソナライゼーションの燃料として特定する、絶え間なく続く膨大な非構造化データを生み出しているのです。したがって戦略的課題は、単にこのネットワークの声に耳を傾けるだけでなく、彼らの散在したデジタル上の会話を、個々の願望に関する統一された実用的な理解へと変換するための技術的能力を構築することにあります。予約データ、SNSの投稿、行動履歴、レビューサイトのコメントといった多様なソースから得られるデータを統合・分析し、一人ひとりの顧客に最適な提案を導き出すには高度な技術基盤が不可欠であり、これは多くの観光事業者にとって大きな壁となっています。

D2C/OMOモデルの台頭と既存チャネルの変革

『DX白書2021』では、D2C(Direct to Consumer)やOMO(Online Merges with Offline)といった新しいビジネスモデルの重要性が強調されています。これは、宿泊施設や観光事業者が、旅行代理店といった中間業者を介さずに顧客と直接つながり、関係を構築するモデルです。

この直接的な関係は、顧客データを自社で管理し、パーソナライズされたコミュニケーションを通じてロイヤリティを高める大きなチャンスをもたらします。しかし、その実現には顧客データ基盤(CDP)の構築や、デジタルマーケティングを駆使する新たな能力が不可欠です。これまで代理店経由の集客に依存してきた多くの伝統的な観光事業者にとって、この新たな技術とノウハウの獲得は極めて高いハードルであり、事業戦略上の致命的な障害となり得ます。

トランスフォーメーションを阻む技術的障壁

DXの理想を追求する上で、避けては通れないのが具体的な技術的課題です。特に観光業では、以下の3点が大きな障壁となっています。

レガシーシステムの重荷(技術的負債)

多くの宿泊施設や旅行会社が、長年にわたり使用してきた古い予約管理システムや顧客管理システムを抱えています。これらのレガシーシステムは、新しいデジタル技術との連携が困難であり、DX推進の足かせとなる「技術的負債」と化しています。アジャイル開発の専門家であるJim Highsmith氏は、著書『EDGE』の中で、「技術的負債は時間の経過とともに組織の適応力を著しく低下させ、イノベーションを阻害する」と警告しています。現実のビジネスに例えるなら、それは古く非効率な工場設備に対し、高金利のクレジットカードで維持費を払い続けているようなものです。そのコストは現在のリソースを消耗させるだけでなく、将来のために必要な新しい高収益設備への投資すら妨げるのです。

「データ」を戦略的資産に変える難しさ

この「技術的負債」は、単にイノベーションを遅らせるだけではありません。組織が最も価値ある潜在的資産、すなわち「データ」を活かすことを積極的に妨げます。レガシーシステムはデータを孤立したサイロに閉じ込めることが多く、Thomas Siebel氏が説くデータの統合・分析を技術的に不可能にしているのです。

観光業は、予約情報、顧客の移動履歴、施設の利用状況、SNSでの言及など、日々膨大なデータを生み出しています。しかし、その多くは活用されることなく眠っています。Siebel氏が指摘するように、これらのデータを収集・統合し、AIを用いて分析することで、施設のメンテナンス時期を最適化する「予知保全」や、客室稼働率を最大化する「需要予測」など、新たな価値を創出できます。しかし、そのためには散在するデータを一元管理するデータ基盤の構築が必要であり、その技術的な複雑さが導入を妨げています。

専門的なデジタル人材の不足

DXを推進するには、それを担う人材が不可欠です。しかし、Prof. L. Prasad氏が『Neoskilling for Digital Transformation』で論じているように、社会全体でAIやデータサイエンスの専門家といった高度デジタル人材が慢性的に不足しています。

特に、観光業は伝統的にIT集約型の産業ではなかったため、DX戦略を立案し、実行を主導できる人材の獲得・育成は極めて困難な課題です。これは単なる既存スキルの学び直し(リスキリング)では不十分であり、未来の仕事に適応するための全く新しいスキルセットを獲得する「ネオスキリング(Neoskilling)」(まだ存在しないかもしれない未来の職務のために全く新しいスキルセットを獲得すること。現在の役割のスキルを更新するのとは対照的)という視点が必要不可欠です。

根深い組織・文化の壁

DXの成否を最終的に分けるのは、技術や戦略以上に、組織の在り方や文化です。どれだけ優れた技術を導入しても、組織がそれを受け入れ、活用できなければ意味がありません。

統一されたビジョンとリーダーシップの欠如

David Rogers氏が『The Digital Transformation Roadmap』で繰り返し強調しているように、DXはCEOの強いリーダーシップの下、全社的な共有ビジョンに基づいて推進されるべきです。このトップダウンのビジョンがなければ、DXへの取り組みは「明確な方向性のない散発的なプロジェクト」に成り下がります。さらに、そのビジョンは、サプライチェーンの責任者から各国の事業責任者、一人のプロダクトチームリーダーに至るまで、あらゆる階層で実行されなければなりません。

しかし、観光業界は個々のホテル、旅館、交通機関、小規模なツアー会社など、多種多様な事業者で構成される断片化された産業です。そのため、業界全体はもちろん、一企業内ですらDXに対する統一されたビジョンを策定し、実行することが構造的に難しいという課題を抱えています。

変化を許容しない「計画・実行」型の組織文化

Jim Highsmith氏は、従来の硬直的な「計画・実行(Plan–Do)」型のアプローチから、不確実性の中で学びながら俊敏に進む「構想・探求(Envision–Explore)」型のマインドセットへの転換を提唱しています。

観光業に根強く残る、季節ごとの綿密な計画や固定化されたオペレーションといった文化は、まさにこの「計画・実行」型の典型です。この硬直性は、競合がリアルタイムデータを用いて新たな「超パーソナライズ週末旅行パッケージ」を数週間で立ち上げテストしている間に、伝統的な事業者は半年かけて静的な季節キャンペーンを計画し、それが市場に投入される頃には既に関連性を失っている、といった致命的な遅れを生み出します。

部門間のサイロと連携不足

David Rogers氏は、組織内の「サイロ(縦割り構造)」がDXを阻む最大の要因の一つであると指摘しています。デジタル時代においてサイロがこれほどまでに有害なのは、顧客体験が本質的に部門を横断するためです。

例えばホテルにおいて、顧客の旅路はオンラインでの発見、予約、チェックイン、食事、施設利用、チェックアウト、そしてレビューの投稿まで、マーケティング、宿泊、料飲、施設管理といった全部門にまたがります。各部門が独立して運営され、個別のシステムで顧客データを管理していては、この旅路をシームレスに管理することは構造的に不可能です。結果として、顧客は断片的で質の低い体験を強いられます。DXの成功には、これらのサイロを解体し、「顧客価値の創出」という共通目標に向かって部門横断で連携する組織構造への変革が不可欠です。

結論:課題は、変革へのロードマップそのものである

本稿で分析したように、観光業のDXは、「顧客体験の再発明」「技術的負債とデータ活用の壁」「専門人材の不足」「硬直的な組織文化」といった根深く、複合的な課題に直面しています。

しかし、リーダーはこれらの課題を単なる障害として捉えてはなりません。むしろ、これら一つひとつを克服していくことこそが、変革に向けたロードマップそのものなのです。

観光業にとって、これらの課題に立ち向かうことは、もはや成長のための選択肢ではありません。Thomas Siebel氏の著作が証明するように、それはデジタル時代において「生き残り、繁栄するため(Survive and Thrive)」の絶対的な要件なのです。ロードマップは明確です。その旅は、今すぐ始めなければなりません。

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